「………なにが、おきたの?」
セシリアが困惑に滲んだ声でそう言った。それもそのはず、モニターに写っているはずのニコラスとパロディの姿がどこにも見当たらないからだ。
ニコラスがパロディの手を取り走った後、彼らは忽然とモニターから姿を消した。その後間もなくして聞こえたアーテルの声は、今までにない程焦燥に満ちていた。
恐らくニコラスとパロディの2人が、アーテルにとって予期せぬ行動を起こしたのであろう。いつもの余裕そうな態度とは裏腹なその声は、まるでアーテルではないみたいだった。
……もしかして、もしかしたら。アーテルのあの焦りようからするに、彼らは本当にあのコロシアムからの脱出を図ったのではないかと。だからこそ、アーテルはあれほどまでに取り乱しているのではないか。
そしてもしもそれが叶うのだとしたら、きっとニコラスとパロディ…2人はどちらも生きて帰ってくるのではないか。
誰よりも彼らの帰りを待ち望んでいるイソラはそう考えた。誰も映さないモニターとアーテルの悲鳴を耳に、彼女はぎゅっと胸の前で両手を握りしめる。
あの時…陽が照らす暖かな廊下で、イソラはニコラスの誓いを聞いた。"誰も傷つけず必ず2人で戻ってくる"と。その時の彼の月色の瞳はあまりにも真っ直ぐで、そこに嘘なんて微塵も感じなかった。
だからきっと、彼なら…ニコラスなら、パロディを連れて戻ってきてくれる。ちゃんと約束したのだから。それに自分は、2人の帰りを信じて待つことしか出来ないのだから。
「…大丈夫、きっと大丈夫だよ」
イソラはそう呟いた。それは誰に宛てられたものでもなく、まじないのように自分に言い聞かせているようだった。
しかし突如。目の前のモニターの画面がぐらぐらと歪み、乱れ、そしてブツリと消えた。それと同時にアーテルの声も聞こえなくなった。部屋にはモニターの鳴らす砂嵐の音だけが響いていた。
「…ね、ねえ!何が起きたの?パロくんたちは?アーテルは?何で見れなくなったの?何が起きてるの?」
不安そうな表情と声色でアシュがそう言った。無論、予期せぬ状況に動揺しているのはアシュだけではない。その場にいた誰もが同じだった。
「………どうなってるのかは分からない。こんな事になっても結局僕らは見守ることと、待つことしか出来ないから。」
ラーナは至極落ち着いた様子でそう言った。その言葉は"どう足掻けど画面奥の家族に干渉することが出来ない無力さ"を突きつけてくるようで、彼の言葉を聞いたイソラはもどかしさが渦巻くような感覚を覚えた。
「…ねえ!とりあえず外に行って、ニコラスお兄ちゃんたちの帰り待ってみない…?」
そう言ってミヤが声を上げた。どちらにせよ何も出来ない今、唯一自分たちが出来ることと言えばそれぐらいだろう。
「……そうしましょう、ここにいたって何も分かりません…から」
「そうだね。…じゃあ皆で外に行こう」
ひかりの声に続きラーナも賛成する。ラーナはそのまま先陣を切るように部屋から出ていった。そしてそれを追いかけるように、子供たちはザアザアという砂嵐の音に満ちた部屋を後にする。
イソラもまた、僅かに迷った末部屋から出ていく。"大丈夫"なんておまじないを何度も心の中で唱えながら。
✝︎◆✝︎
外に出て何十分か経過した。外は既に夕日が照りつけていて、サラサラと心地の良い風が肌を掠めていた。不安な気持ちを抱えたまま、子供たちはただひたすらに家族の帰りを待ち続けていた。その時。
「……あっ、あれ…」
セシリアが驚いた表情で平原の先を指さした。それに釣られるように子供たちがその方向を見ると、
…ニコラス"1人"が、フラフラと覚束無い足取りでこちらへ歩いてきていた。
どくりと、胸が鳴る。
彼らの身に何が起きたのかなんて分からない。けれど、一緒にいたはずのパロディの姿が見えないと、いうことは______
「…ッお兄ちゃん!!」
頭が、最悪な答えを導き出してしまうよりも先に。イソラはバッとその場から走り出しニコラスの元へと駆け寄っていた。
「お、お兄ちゃん、大丈夫?…怪我、治療、しないと…、」
ニコラスは何も言わなかった。ただ下を向いて俯いていた。肩からは血がボタボタと垂れているのに、彼がそれを気に止める様子はなかった。
嫌な予感がする。ザワザワと胸が騒いでいる。わかっている。わかっている。…だけど知らないフリをしている。気付かないフリをしている。見ないフリをしている。認められないでいる。
何も言わないニコラスの姿。隣に居ない"あの子"の姿。その全てが、確かな答えだった。自分達の知らない空白の時間で何が起きたかなんて、容易に想像ができた。
「……ニコラス、おに、 ちゃん」
震える口で、動かない彼の名を呼ぶ。震える手で、動かない彼の裾をきゅっと握る。そうしてイソラは、震える声で、彼に、言う。
「…パロ、くん は?」
「…」
ニコラスが、顔を上げた。月色の瞳が、バチリと重なり合った時
「………パロは、って…何のことです?」
「…っへ?」
彼は、まるでどこも見ていなかった。確かに目が合っている筈なのに、焦点があっていないような。………いや、それよりも。
「お、…お兄ちゃん?パロくんは……だって、パロくん、一緒に、」
「落ち着いてくださいソラ、そんな顔をしてどうしたんです?パロが一体どうしたというんです?また何かイタズラでも?」
いつもの穏やかな声で、ニコラスは優しくイソラの背を撫でた。…彼は一体何を言っているのだろう。
「…ニコラスお兄ちゃん、なに、…言ってるの?」
ミヤもまた、動揺を隠せない様子でそう言った。対するニコラスはとても冷静なように見えた。
「……困りましたね…、僕…何かしでかしてしまったのでしょうか?」
顎に手を添え、ニコラスは小首を傾げた。その様子はいつもと何一つ変わりなかった。だけど、イソラは確信する。
彼はもう既に壊れている。救いようも、直しようもないほどに、深く、強く。
「…ソラ?どうしたんです、そんなに震えて…どこか痛いところでも?」
ニコラスが、心配そうに震えるイソラを覗き込む。その姿は正しくいつもの優しい兄はずなのに、そこに温もりは全く感じられなかった。
何が正解なのかなんて分からない。だけど、……壊れてしまった彼を、これ以上壊すことなく、救うのだとしたら。
「………………ううん、…大丈夫!ちょっと寝不足で疲れちゃってたみたい!心配かけてごめんね、お兄ちゃん」
イソラは、そう言ってにへりと笑って見せた。いつもみたいに優しく、いつもみたいに明るく、元気で。そうしたら、ニコラスもまたくすりと優しい笑みを見せてくれた。
「それは良かった。無理は禁物ですよ?何かあれば僕を頼って下さいね」
「わかってるよ、えへへ」
2人の様子を見ていた子供たちは何も言えず固まっていた。目の前で起きている2人のやり取りは、まさに"日常"のワンシーンであった。あんな事が起こった後で、どうして2人は、笑っているのだろう?
「…っお、おかしいよイソラ!ニコラス!何でそんな風に笑うの、何で、なんでっ」
「アシュくん」
「っ、」
アシュが怯えた様子で声を張り上げた。しかしそれを、ラーナが手のひらで制止する。ラーナの瞳は真っ直ぐアシュを見つめていて、それ以上アシュが何かを言うことは無かった。
「ニコラスくん、もう遅いしとりあえず家の中へ戻ろっか。その怪我も治さないとね」
「?おや…本当ですね、怪我しているなんて全く気づきませんでした……」
「あははっ大丈夫だよ、そんなに深くないしすぐ良くなると思うから」
ラーナもまた、イソラと同じようにいつもの優しい兄としてニコラスの頭を撫でた。それを見て、何も言えず呆然と立ち尽くすだけだった子供たちも察した。恐らくニコラスにとって、"これが正解"なのだと。
「そう言えば、パロは何処へ?」
彼のその問いに、ラーナは優しい笑顔を崩すことなく答える。
「………パロディくんなら大丈夫だよ、ちょっとシスターに呼び出されてるだけ」
「そうでしたか…ふふ。パロ、また何かイタズラでもしたんでしょうか」
クスクスとニコラスが笑う。そしてイソラとラーナも、そんなニコラスを壊さないように、丁寧に、優しく接する。
せめて、せめて今だけは。優しい嘘で守られて、全て忘れて幸せなままでいて欲しいから。穏やかなニコラスの表情を見て、アシュも、セシリアも、ミヤも、ひかりも。彼に辛い現実を突きつけることは無かった。
「お兄ちゃん、行こ!シスターがご飯作って待ってるよ」
「おやおや、そんなにはしゃいでは転んでしまいますよソラ」
イソラは、"無邪気な妹の姿"でニコラスの服を引く。ラーナもまた、"面倒見の良い優しい兄の姿"でニコラスを現実から遠ざける。
幸せな絵空事の中、みんなで家へと戻ろうとした時。
「ニコが殺したんだよ」
鈴を降ったような高い声が、ザァっという風の音と共に草木を駆け抜けた。突然響いたその言葉に、イソラはまるで全身が凍りついたように動けなくなる。
恐る恐る、声のする方を見ると、そこには
「ニコが、パロのこと殺したんだよ?」
冷たい氷のような瞳でこちらを見下ろすチェカがいた。彼女は無表情で、ニコラスを見つめていた。
「…………チェカ?一体何を言っているんです?」
「おぼえてないの?ニコが、パロのこと殺したんでしょ?だからパロは、ここに居ないんでしょ?」
チェカは、躊躇なく、容赦なく、そう言った。それを聞いてイソラは、全身が震えて、何も言えずにいた。彼女を止めなければいけないのに、言葉が、出てこなかった。
「ニコ、ひどいよ。今日の朝、パロずっと言ってたんだよ?ニコのこところしたくないって、ニコと戦いたくないって。死ぬのはこわいけど、ニコには生きてて欲しいって」
やめて
「ニコのことだいすきだから、大事だからって、ずっとずっと泣いてたんだよ」
お願いだから
「なのに、ニコはそんなパロのこと、殺しちゃったんでしょ?だいすきっていってくれてたのに、ころしたんだ」
これ以上、
「………"パロを傷つけずに戻ってくる"なんて 守れない約束、しちゃダメなんだよ?」
「っもうやめて!!!!」
イソラは、悲鳴にも近しい声でそう叫んだ。世界の時が止まったみたいに、辺りがシン…と静かになった。
「…やめて、やめてよ、お願いだから、どうして…どうしてそんな事するの…?」
「………なんで怒るの?チェカ、悪いこといってないよ?本当のこと言ってるもん。ウソついてるのはイソラの方でしょ?どうして家族に嘘なんてつくの?」
「それ、は、」
口に出そうとした音が、喉で詰まって出てこない。何かを言おうにも言葉が形を作らない。違う、私、そういうつもりじゃ、
「…………ぼくが パロを ころした?」
ニコラスが、口を開いた。イソラとラーナがバッと振り返ると、彼は、淀んだ瞳を大きく見開いてチェカを見つめていた。
「有り得ません だって、僕がパロを、カランコエを殺すだなんて___」
"絶対離さへんよ、ニコ!"
「…?」
"ニコのこと、ずっとずっと前から大好きやったもん"
「、ぁ ?」
"しゃーないから、おれニコの為に生きたげる。だからニコも、おれの為に生きてな"
「カラ ン ?」
"______ニコ、ニコ、ニコ!おれ、ホンマにニコのことだーいすきや!!"
「ニコの、人殺し」
チェカが、そう笑った。
「___ッぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
突如として、ニコラスが奇声を発してチェカへと飛びかかった。
それはあまりにも突然で、あまりにも狂気的で、我を忘れたニコラスを、そこにいた誰も、咄嗟に止めることが出来なくて、
「ッだめ、お兄ちゃん!!!!」
驚いたように目を見開いたチェカの首へ、ニコラスが手を伸ばしたその瞬間。
ドンッ、と。
誰かがニコラスを勢いよく後ろへ突き飛ばした。そのまま吹き飛ばされたニコラスは、思いっきり地面に頭を打つ。
イソラは突然目の前に倒れた兄の姿を見て、何が起きたのか分からないでいた。しかし、ラーナの言葉でハッと我に返る。
「………………サビク くん、」
ラーナは、チェカを背後に守るようにして立つサビクの姿を見た。イソラもまた、ラーナの視線をおってサビクの方を見たが…サビクの表情はよく見えなかった。
「っ、お兄ちゃん!!」
「ニコラス…!!」
イソラとセシリアが地面へ倒れるニコラスの元へと駆け寄った。ニコラスは うぅ、と唸りながら、痛む頭を抑え立ち上がろうとする。が
「だめだよ、お兄ちゃんっお願い落ち着いて、」
「………ッぁ、あ…、黒、」
ぐらぐらと歪む視界の中サビクの姿を見て、ニコラスがそう呟いた。そして、全てを思い出したのであろうニコラスは、ボロボロと壊れたように涙を流し、懺悔する。
「…僕が、僕が、僕があの時手を引かなければ、逃げようなんてあんな事、考えなければ、カランは、カランは、ぁあ、僕が殺した、僕のせいで、僕のせいでカランは、撃たれて、ッぁあ…ごめんなさいカラン、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめ ん、なさ………ぃ…、…」
頭の打ちどころが悪かったのだろう、ニコラスはそう呟きながらフッと意識を手放した。
ついに完全に壊れてしまったニコラスの姿を見た子供たちは絶句した。
優しい兄の取り乱す姿を見て、ひかりは1歩後ずさった。アシュは、近づけないでいた。セシリアとイソラは、何も言えなかった。
「……サビクくん、チェカちゃん、どういうつもり?何もここまでする必要なかっただろ」
ラーナが怒りを含んだ瞳でサビクとチェカを見る。チェカはその威圧に怯えた様子でサビクの後ろへ隠れた。サビクは、ただ呆然と立ち竦んでいた。
「………どういう、って 俺、…ただ喧嘩を止めただけで…」
「相手は衰弱してるんだよ、突き飛ばすことないだろ」
「…………………? …俺が、悪いの?」
サビクが、そう言った。彼の表情は相も変わらず髪で隠れてよく見えなかった。しかしその抑揚の無い声はいつもの彼とは全く別人のように聞こえた。
「………………………ごめん。みんな。……ニコは オレが運ぶよ」
暫しの沈黙の後、サビクはそう言うとニコラスの元へ近づくと、落とさないよう丁寧に、優しい手付きで彼を抱き上げた。
そしてそのまま何も言わずに彼は家の中へと踵を返した。チェカもまた、慌ててサビクの後を追う。
取り残された子供たちは、壊れた兄の姿が頭に焼き付いて離れないままで。…ただ去りゆく3人の姿を、呆然と見送ることしか出来なかった。
✝︎◆✝︎◆✝︎
家族から、完全に笑顔が消えた。団欒も、日常も、平和も幸せも、今やまるで遠い昔のことのように思える。
夜になっても、家族全員が食卓を囲むことは無かった。ポッカリと空いた席は、心を閉ざした家族の分と、まだ目覚めていない家族の分と、もう二度と目覚めることの無い家族の分。
幸せも、温もりも、平和も、確かにここにあったはずなのに。いつの間にか全部無くなっていた。誰もがみんな絶望の底にいた。
……ひかりにとってそれは、あまりにも悲しく辛い現実だった。彼は何よりも家族の幸せを願っていた。それなのに、どうしてこんな事になったんだろう、なんて。
「………………セシリア、さん」
恐る恐る、ひかりはセシリアに声をかける。ぼんやりと一点を見つめていたセシリアは、遅れてひかりの声に反応する。
「どうしたの?…ひかり」
「…ご飯、もう食べないんですか?」
「…………うん、…もういらない」
「…わかりました。食器、僕が片付けておきますね」
「あ、……うん、…ありがと」
ひかりは自分の分と、セシリアの分の食器を持ってキッチンへと向かった。キッチンは仄暗くて、ポチャン、ポチャン…という水が滴る音だけが響いていた。ぐっと背伸びをしてひかりは食器を置いた。
「………皆、とっても悲しそうでした…」
ひかりはきゅっと自分のズボンの裾を握る。いつも自分に優しく接してくれた家族のみんなが、今はどこか他人のように感じていた。
勿論それが、自分が嫌われているわけではないことをひかりはわかっている。アシュがあの時そう励ましてくれたから、今もひかりは、家族のために出来ることを率先して行っている。
「…もっと皆の役に立てるように頑張らないと。僕だってきっと、やれば出来るんですから」
そう言って自分を励ますように呟いた。そうしたら、悲しい気持ちも少しはマシになるような気がして。
「そうだ、神父様たちのお手伝いをしよう」
そう思い立ったひかりは、グッと拳を握り、キッチンを出て神父のいる部屋の方へと廊下を進む。
廊下は思いの外暗かった。所々照明が切れかかっているせいもあるが、気持ち的な問題もあるのだろう。何だかいつもより怖く感じた。
神父の部屋には過去に訪れたことがある。何処にあるのかは分かっているため、ひかりは迷わず部屋の方へと歩いていった。
「…あれ?」
しかしその時。廊下を歩いていく途中で、1つ、見慣れない扉を発見した。その扉は他の扉とは違い真っ黒な扉をしていて、まさに異様な雰囲気を発していた。
「…こんな場所にこんな扉、あった、かなあ…?」
何せこの場所には頻繁に訪れる訳では無い。こんな扉があった所で覚えているはずもないし、もしかしたら見逃していただけかもしれない。
とはいえ別にこの先に用がある訳では無い。特に気にかけることも無くひかりが扉を素通りしようとした。が。
ガシャン!という大きな音が、扉の奥から聞こえた。突然の物音にびくりと肩をはねさせたひかりはぎゅっと身を強ばらせる。
もしかしたら、中に誰かがいるのだろうか?居るとすれば恐らく、神父やシスターのどちらかだろうか?
「…何か作業でもしているんでしょうか?もしそうなら手伝ってあげたいな…」
そう考えつつひかりは、夜の暗闇のせいで一層重圧感を感じるその扉の取っ手に手をかけた。
扉は見た目に反して存外簡単に開いた。恐る恐る中を覗き込んでみると、その先はどうやら地下へと続く階段となっているようだった。
「…この孤児院に地下があったなんて…驚くべき発見です…」
驚いた様子で中を覗き込むひかり。普通ならきっと、恐怖を感じていたがしれないそれも、中に家族の誰かがいるのだろうと分かっているならば恐怖は感じない。ひかりはほんの少し迷った後、ゆっくりとその階段を降りていった。
地下室は上の階よりも寒かった。降りれば降りるほど冷たくなっていく空気に僅かに身震いしながら、足を踏み外さないようひかりは慎重に降りていく。
丁度最後の階段を降り終えた時。ひかりはぐるりと辺りを見渡した。
…しかしそこには特に物珍しいものは無かった。人がいるわけでもなく、物が置いてある訳でもない。ただただ殺風景な場所だった。
「?長らく使われてないみたいですね…」
ひかりは訝しげに首を傾げた。…しかし。よく見るとこの地下室はここら更に奥へ道が続いているようだった。その先は暗くてよく見えないが、音のした方向はそっちだろうか?
「神父様?シスター様?いるんですか?」
ひかりは、奥に続く道へと足を進める。コツ、コツ、という足音だけが響く暗闇の中、ここの居るであろう誰かに声をかける。
そうして彼が、迷うことなく進み続け、奥の部屋をのぞきこんだ時。
ひかりは目を見開きヒュッ、と息を飲む。
「………っ ぇ?」
全身が震える。言葉が出てこない。体が動かない。目の前に広がる景色が、目の前にあるモノは、決してここにあるはずのないモノで、
「だって、シスター様、あのとき、?…何で、」
「みんな、 が」
____ここから逃げなければ。
そう思い、動かない足を1歩2歩と後ろへ引いた。
だけどその時、ドン、と何かにぶつかった。
驚いてバッと振り返ると
「___迷子かな?」
「ッッひ、」
背後に、誰かが、立っていた。
✝︎◆✝︎◆✝︎◆✝︎
ミヤは一人、寝室のベッドに座って窓の外の夜空を眺めていた。
少し前までは家族みんなで星座を見たりしてはしゃいでいたのに、そんな日常が遠い昔のように思えてくる。
「………あんなに、楽しかったのにな」
ぽつりと呟いた言葉は虚しく1人の部屋に反響する。ほんのちょっと前まで、当たり前に幸せで、当たり前に平和で、家族みんなが仲良くしていたのに。どうしてこんなことになったのだろう。
ミヤは膝を抱えて顔を埋めた。何も見えないように、何も考えないように、全てから逃げるように。
…ふと、背後からがちゃりと扉が開く音がした。驚いてミヤがそちらを振り向くと、そこに立っていたのは
「……ミヤ?」
「…セシリア……」
セシリアが、驚いたように目を丸くしてミヤを見ていた。電気もつけず真っ暗な部屋で一人過ごす彼女の元へセシリアは歩いていく。
「…どうしたの?部屋、真っ暗だよ。…眠いの?」
「………ううん、違うよ。お星様綺麗だなーって、見てただけ」
セシリアはぽすり、とミヤの隣へ腰掛けた。ミヤはまた、自分の膝に顔を埋めてしまった。
「………ミヤ、泣いてるの?」
セシリアがそう言うと、ぴくりとミヤの体が小さくはねた。だけどミヤは何も言わなかった。それを見てセシリアも何を言うわけでもなくただ隣に寄り添っていた。
無言が生み出す静かな空間で2人きり、聞こえるのは小さな少女の呼吸の音。寂しいほどに静寂に包まれたこの部屋で、カチカチと時が進んでいく。
…そんな静けさを破ったのは、セシリアの方だった。
「っ?…………セシリア?」
布と布が擦れ合う音がしたと思えば、ミヤはセシリアにぎゅっと抱きしめられていた。ぱちくりと目を瞬かせると、彼女を抱きしめたままセシリアが言った。
「………セシル、ミヤにぎゅってされるの好きだったの。…心がポカポカってして、あったかくて、安心できたの。……だからね、セシルもミヤのこと…安心させれたらいいなって」
心地よい体温が、優しさが、夜の空気と寂しさに冷やされた凍ったミヤの体を、心を、溶かして暖めていく。
こんな感情は知らない、分からない。怖い。怖い。…だけど、今はそれに縋るしかなくて。与えられた"ソレ"に、ミヤはぎゅっと腕を回して抱きしめる。そうして、掠れた小さな声で言う。
「…………ミヤ、人を殺すことなんて簡単だとおもってたの。でも、でも………ホントはだれも殺したくない、傷つけたくないよ。ミヤはただ愛されたいだけなの、それだけなのに、何でこんな事、しなくちゃいけないの」
ミヤの啜り泣く声はセシリアにしか聞こえない程にか弱かった。その涙で濡れた言葉と表情は、いつものミヤとは全く違っているはずなのに、何故か、こっちの彼女の方が本当のミヤなのではないかとも思えた。
「わかんない、わかんないの。どうしたらいいかわからない、セシリア、ミヤどうしたらいいの?なんでこんな気持ちになるの?殺すなんて怖くない、殺さないと殺される。だから怖くなんてなかったはずだったのに、どうして、こんなに苦しくてつらいの?」
止めどなく吐き出される嘆きの言葉は彼女の内に秘められたモノの全てに思えた。セシリアは優しく彼女の背を撫で、彼女の長気を、悲しみを、苦しみを、受け止める。……かつて自分が青い鳥のあの子にしてもらったみたいに。
「大丈夫だよ、ミヤ。ミヤの悲しい気持ち、苦しい気持ち、全部全部セシルが受け止めるから。だからね、………一人で抱え込まないで」
セシリアの言葉を聞いて、押し殺すように泣いていた声がどんどん大きくなる。やがて子供のように泣きじゃくるミヤの傍を、セシリアは決して離れなかった。それが、家族にできる唯一のことだと、あの時自分も教えてもらったから。
「ミヤが苦しい時は、一緒に苦しむよ。悲しい時は、一緒に泣いてあげる。そうしたらミヤも、きっと寂しくないでしょ?」
「………わかんないよ。セシリア、どうしてそんな事するの?」
涙で濡れた真っ赤な瞳でミヤがセシリアを見る。するとセシリアは、優しく、愛情を孕ませた瞳で微笑む。
「…セシルは、家族のみんなが大好きだから。だから、ミヤのことも、とっても大切なんだよ」
その言葉が、ミヤの心に突き刺さる。この感情が何なのかなんてわからない。だけど、セシリアが差し出した"ソレ"は、ミヤの心を大きく包み込むようだった。
ミヤは、優しい家族の温もりの中で泣いた。誰も傷つけたくない。誰も殺したくない。許されるならば、どうかここでずっと、彼女の腕の中で眠っていたいと。強く強く願うのだった。
___そんな事を願ったところで、何も変わらないというのに。
『__あーー、ハロ〜子供たち、元気にしてる〜?』
どんなに願っても、祈っても、泣いても縋っても。無情にもこうして悪魔は訪れるのだから。
『いや〜まさかあんな事になるとは思わなかったよね、ニコラスくんてば僕を騙そうなんて100年早いよ〜
……ま、空間が壊れたのは予想外だったけど。人間の精神ってのは実に複雑だねえ〜』
その言葉に、ミヤは僅かに引っかかりを覚えた。呑気な口振りで笑うアーテルの声はどこか楽しそうだった。セシリアは趣味の悪い最悪な悪魔を、心の底から軽蔑した。
『終わったことはどうでもいいや、とりあえず次の対戦相手の発表をしようか!皆待ちくたびれたかな〜?』
クツクツと男が笑う。この男はいつもそうだった。地獄に陥る自分たちを見て、心の底から楽しそうに、嬉しそうに笑ってる。
『それじゃあ早速発表しようか』
セシリアはこちらに寄り添うミヤの手をぎゅっと握りしめる。
『次の対戦ペアは___』
そしてごくりと、唾を飲み込んだ。
『ミヤちゃん&アシュくんでーす!』
がくりと、肩の力が抜けた。
同時に、安堵か、はたまた驚きか、或いは焦燥か……セシリアはバッと隣で寄り添うミヤを見た。
ミヤは目を見開いたまま一点を見つめていた。その表情にどういう意味が隠されてるのかはわからない。だけど、あんな話をした後に、彼女が選ばれるなんて
「……ミ、ミヤ」
「……」
彼女は何も言わなかった。あれ程までに自分に泣きすがっていたのに、まるで心ここに在らずといった様子だった。そしてセシリアが、彼女の肩に触れようとした時。
「…セシリア、ごめんね。1人にしてほしいな」
ミヤが、抑揚のない声でそう言った。それは確かな拒絶とも取れた。…だが彼女が望むのなら、これ以上自分は何も出来ないだろう。セシリアはそう悟った
「…わかった。…でも、ミヤ…忘れないでね。セシルはずっとミヤの味方だから」
そう言い残すと、名残惜しそうにセシリアはその場から立ち上がる。
一人きりの部屋で、月明かりに照らされたミヤが小さな声で呟いた言葉を、セシリアは聞き逃さなかった。
「………………………ころしたく ない なあ」
無力さを胸に、セシリアは彼女の背を暫し見つめたあと、部屋から出ていった。
※この創作はフィクションです。
実在する団体・個人とは関係ありません。
※3L要素(異性愛・同性愛描写)が含まれる可能性があります。
※暴力・流血表現、ロスト、死ネタ、R指定要素あり。
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